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意思決定
人生は取捨選択の連続であるのかもしれない。朝の天候や寒暖によって、その日着て行く衣類を決めるが、一つを選ぶということは同時に衣装ケースにある多くの衣類を捨てるということでもある。そしてハンカチをチョイスし、アクセサリーを選び、靴を選択し、そして電車通勤ならその時間を選び、昼になれば昼ご飯を何にするかを決める。本屋に立ち寄れば、無数の書籍の中から一冊、二冊を選び、スーパーに立ち寄れば、その日の夕飯の食材をチョイスする。意識するしないに関わりなく、日々の暮らしの中で常になにかを選んでいる。
それらは数限りないものの中から一つを選択し、それ以外のものは全て捨て去っているということでもある。一つを選ぶということは何と何と多くの物を捨てていることか!と思う。そしてそれは自らの意思に基づいて選び、かつ捨てているのである。

知的にハンディのある人たち、少なくともしろがね苑に入った当初のひとたちは、例えば自分の洋服を選ぶとか、自分の足のサイズに見合う靴を選ぶとか、数多くあるメニューのなかから食べたいものを選んで注文するというようなことが出来ていないのが実態である。私たちは自分の洋服のサイズ、SとかMとか、靴は25僂箸はわかっているとおもうのだが、彼ら、彼女たちは自分のサイズが解っていないことが多々ある。何故か、親が洋服も靴も食べ物の注文も本人に代わってやってしまっているから。出来れば、2色並べて「どっちの色がいい?」とか「今日は何が食べたい?」とか聞いてくれればいいのだがそれもせずに親が選んでしまう。それが子供の時から18歳になるまでずっと続いていたとしたら、彼達は自分で選ぶとか、多くの物の中から選択するとかという経験をせずに大人になっていくのである。日常の小さな選択が出来ないままで、人生の大きな選択などできるはずがないと私は思うのだが、今、本人の意思決定について支援すべき?支援が必要との議論がされている。

意思決定支援とは?ご本人一人一人の意思とはどのようなもので、どうくみ取ればよいのか、そして最も重要なのが、誰がその人の意思をくみ取り、その支援に当たるのかということ。例えばもっとも本人のことをよく知る人だとすると、親です となるかもしれないが、私から見れば親はもっとも本人の意思を無視しているとしか思えない存在になる。

私の記憶の中に一人の男性が居る。彼は重度の自閉であり、言葉はおうむ返し、こだわり行動は毎日一時間以上程度続く。自らの意思を表す言葉は聞くことが出来ない。洋服は当然母親が用意しておくのだが、ある時、本人を連れてお店に行き、旅行用の洋服を買った。シャツもズボンもそれぞれ3色を並べて「どれが好き?」と聞いた。すると見事にその中の一枚を指差したのである。ついでに普段着も買ってみた。それ以来、母親のお仕着せはすぐに脱いでしまって、自分が選んだものを着るようになった。
まさにこれが、日々の中での選択であり意思表示である。それらの積み重ねが無ければ自己選択とか自己決定などできるはずがないと私は思う。それはある意味でトレーニングなのである。選ぶ機会を与えられていなければ選ぶことはできないのである。私たちは日々の支援の中で、その人が自らの意思で、自分の暮らしや生き方を選ぶことが出来るような環境を作っているだろうか。充分な情報提供が出来ているだろうか。それがもし不十分な中での自己決定支援になってしまっているとしたら、それはその人の人生を、支援という名のもとに奪ってしまっていることに他ならない。

自己決定支援はある意味において、とても恐ろしい側面を持つように私には思える。安易に自己決定支援などと言ってほしくないと私は思っているし、その支援ができる人が本当に存在するのか、存在するとしたらどのような人なのか、十二分に考えたうえで議論すべきだと思うのである。



 
【2015.11.26 Thursday 10:50】 author : 長谷川 淺美
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